20250630 仮定法のshould
だいぶ日記をさぼってしまった。
英語を勉強する目的が、難しい英語の本を読めるようになることなので、難しい英語の本をどんどん読んでみていこう。やさしい内容を多読するのがいいと聞くけれど、難しい内容をしっかり読解するのも大事なはずだ! そして、難しい内容をしっかり読解する読み方で、多読する。
そういうわけでソローの『ウォールデン』を一行ずつ頑張って読む。
最初に引っかかったのがshouldの使い方。「~すべき」という使い方だけが染みついてしまっていて(学生時代、それ以外で解釈したこと一度もなかったと思う。自分の周り(理系)に比べたら英語の成績はいいほうだと思ってたけど、レベルが低かったことを今、しみじみ自覚……)、仮定法を考えることができなかった。
I should not obtrude my affairs so much on the notice of my readers if very particular inquiries had not been made by my townsmen concerning my mode of life, which some would call impertinent, though they do not appear to me at all impertinent, but, considering the circumstances, very natural and pertinent.
最初の章"ECONOMY"の 2段落目の1文目。
自分へのメッセージ。ifがあったらshouldは仮定法と考えよう!ということで自分なりに訳してみる。
もし町の人から私の生活様式について細かい質問を受けることがなかったら、個人的な事情をあえて読者に意識させるようなことはなかっただろう。こうした質問は、私にはまったく失礼だとは思われないが、失礼だという人もいる。しかし状況をよく考えれば、とても自然でもっともな質問に思えるのだ。
青空文庫にある神吉三郎訳とは関係代名詞which節の先行詞の解釈が違うけど、こうではないかな~~と私は思った。(神吉訳は、which some would call impertinentの先行詞をmy mode of lifeと解釈しているみたい。それでimpertinentを「奇をてらった」と訳している。)impertinentとpertinentを対比させているけど、辞書で見るとどうしても意味は真逆ではない。そしてそれを日本語に反映させるのは、難しいな~。
仮定法のshouldはその後も発見。
I should not talk so much about myself if there were any body else whom I knew as well.
ここもif節があるので、shouldは仮定法で解釈。「自分のことをこんなに話すべきじゃない」ではなくて、
もし私が自分自身と同じくらいよく知っている他人がいるのであったら、自分のことをこんなに話すことはなかっただろう。
こんな感じかな。as wellがよくわからない。as well as myselfということだと思うのだけど、そうだとしたら書かれていることの意味がよくわからない……。私自身と同じくらい私がよく知っている他人がいたら、なんで自分のことを話さないことになるんだろう? つまり、そういう人がいる世界ってことは、他人も私のことをよくわかってる世界だろうからってこと?
内容の解釈は文法の解釈の次のレベルだなーと思います。今まで、難しい本を日本語で読むとき、あまり考えてこなかったことだけど、日本語に訳されるときって必ず訳した人の解釈が入ってきてしまうんだなあ。特に、もう著者が生きていない昔の本は、これってこういうことですか? と著者本人に聞くこともできないし。
とりあえず今日のまとめ:shouldはifがあったら仮定法だと考える
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